2018年07月16日

通巻第1265号

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月14日(土曜日)
         通巻第1265号   
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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戦後日本の知識人は、死の想念から逃れた
だから死を賭した三島由紀夫事件は衝撃だったのだ

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西部邁 v 宮崎正弘『アクティブ・ニヒリズムを超えて』(文藝社文庫)
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 行動的積極的虚無主義――本書のタイトルである「アクティブ・ニヒリズム」を翻訳するとこうなる。筆者の西部邁氏が10代に愛読したアンドレ・マルローから、何もないニヒルな気分、それでも、ひたすら何かのアクションへ自分を駆り立ててしまえという衝動に応えてくれたのが、マルローからのこの言葉だと告白している。
いわば、西部氏の60年安保闘争への参加の契機となった思想的背景である。
最初は三島由紀夫がマルローに憧れ、最後はマルローが三島に憧れた。その三島の晩年に近くにいたのが宮崎正弘氏だった。
本書は、言論界の泰斗による、安保条約、国防論、国家、民族、思想、日本のあり方、日本人と文化等々にまつわる「戦後の病理」を行動的ニヒリズムをもって超克できるかを
縦横無尽に語り合っている。
 哲学的アプローチの一例が、日米安保条約改定から半世紀以上の中で最大の衝撃は、連合赤軍事件と三島由紀夫自決事件で、これ以降、左翼はサヨクと化し、言葉には死を賭した責任がつきまとうようになった。
人類は、「死の意識」「死の想念」からの逃避としての「戦争のない平和な想念」に永遠に身を浸すことは不可能である。人は死ぬものであり、国家をめぐる政治的な死でさえいつ訪れないとも限らないことを忘れてはならない。
結局、戦後日本の知識人は、死の想念から逃れたのだ。だから、死を賭した三島由紀夫
事件は衝撃だったのだ。今こそ日本人に染み付いた平和主義を疑わなければならない。
            (文芸社企画編集室編集長 佐々木春樹)

https://www.amazon.co.jp//dp/4286199231/ref=sr_1_10?s=books&ie=UTF8&qid=1531528599&sr=1-10&refinements=p_27%3A%E8%A5%BF%E9%83%A8+%E9%82%81
 (この書評は産経新聞の書評欄の再録です)

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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派、そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
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9月公開講座講師は作家・伝統文化評論家の岩下尚史氏。
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 日時 9月25日(火)18時半開会(18時開場)
 場所 アルカディア市ヶ谷(JR・地下鉄「市ヶ谷」下車2分)
 演題 拙著「ヒタメン」について
    https://honto.jp/netstore/pd-book_28077482.html
講師 岩下尚史(いわした ひさふみ)作家・伝統文化評論家、國學院大客員教授
 講師略歴 昭和36年生れ。熊本県出身。國學院大卒、新橋演舞場企画室長を経て作家・評論家に。平成19年『芸者論:神々に扮することを忘れた日本人』で和辻哲郎文化賞受賞。三島由紀夫を論じた『見出された恋:「金閣寺」への船出』や『ヒタメン』の著作がある。(いずれも文春文庫)
会場分担費 会員・学生1千円、一般2千円
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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(C)三島由紀夫研究会 2018  ◎転送自由
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通巻第1264号

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月11日(水曜日)
         通巻第1264号   
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 加賀藩下級武士の末っ子、幼き頃からのペシミズム
  這い上がっても、そこに理想はなかったのか、徳田秋声の生涯

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松本徹『徳田秋声の時代』(鼎書房)
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 かなり長い時間、ツンドク状態だった。
 三島由紀夫研究の第一人者が、「なぜ? 徳田秋声なのか」
 加賀藩の下級武士の小せがれ、廃藩置県で父は職を失い、一家離散。ペシミズムが身についている。
 徳田は当時の文学状況に、尾崎紅葉や二葉亭四迷、坪内逍遙の活躍を夢見ながらも、「そこに自身の目標だとか理想はなかった。その点では怖ろしく冷淡で、冷めていた。それというのも、そこに理想を見出したところで、没落の過程に身を置く者が、どうしてそれを目指して進むことが出来るだろう。自分はその資格を欠いた者、との気持がいよいよ深まる一方だったのである」(171p)。
 そうした青春時代に転機がきた。
 徳田秋声は泉鏡花とならんで尾崎紅葉門下、もうひとりの弟子は田山花袋であることは知っていたが、現代日本人から見れば、いかにもかび臭い作家、そういえば徳田秋声には『黴』という作品もありましたが。
 評者(宮崎)にとって、秋声と泉鏡花は石川県人なので、親しみはあるし、室生犀星とともに、金澤には文学館もある。釈超空も、鈴木大拙も石川の人である。文学、哲学で、巨人を産んだ叙情の豊かな土地だったけれども、いまや石川県は「巨人の松井」という選手が有名なだけ。
 おくに自慢はそれくらいにして、徳田秋声は通俗小説と自然主義文学との境目を、はてしなく彷徨した。流浪の貧困人生。ある日、突然流行作家になる。
ところがなぜ流行作家になったのかと言えば、正統な評価からではなく、かの檀一雄と同様に、現在進行形のフリン物語を書いた。檀には、『火宅の人』があって、映画にもなって、ベストセラー。本来は浪漫派の作家だった。傑作は『花かたみ』と『夕日と拳銃』だろうが、誰も顧みない。
 徳田秋声もまたフリンの実話(いわゆる「順子」もの)を現在進行形で連載小説とし、完成前に映画になるという時代の寵児だった時期がある。
 しかし尾崎門下時代は、英語力を買われ、片っ端から西洋の小説を翻訳して糊口を凌いでいたという。
 翻訳は自ら丸善にでむいて選択するのではなく、紅葉のもとに新聞社、雑誌社から翻訳依頼がきて、その仕事を貰っていたということで、他方、田山花袋はモーパッサン、ゴンクールに集中した。
 「取り組み方が対照的であった。花袋は能動的、秋声は受け身的である。また、花袋は理念的、秋声は実際的と言って良いかもしれない。しかし花袋は、自分の語学力もあまり気にせず、関心の趣くまま、読んだのに対して、秋声は、紅葉訳とされる『鐘楼守』にしても、英訳本を参照して、かなり厳密に訳している」(30p)と、その姿勢の違いを明らかにしている。
 そのうえ、秋声はと言えば、田山花袋と異なって「翻訳から「本質的に影響らしい影響をほとんど受けず、我が国の風土、暮らしに根付いた、すぐれた自然主義的文学を生み出すことになった」。
 以下、秋声の伝記と文学論が続くが、国文学ファンでもなければ、徳田文学の意味は、卒論のテーマにもないにくい時代となった。
 それにしても、この徳田秋声と三島由紀夫研究とは、松本氏の脳裏のなかで、いかなる相関関係になるのか?
十年ほど前に金澤の徳田秋声文学館開所式に行くという松本氏に訊いたことがある。「それは、三島研究の合間に、息抜きとして徳田秋声がちょうど良いのです」という意味のことをいわれて、なるほど、そういう相関関係の方程式で、この謎がとけたような気になったのである。
                          (評 宮崎正弘)
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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派、そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
           ◎◎◎◎


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9月公開講座講師は作家・伝統文化評論家の岩下尚史氏。
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 日時 9月25日(火)18時半開会(18時開場)
 場所 アルカディア市ヶ谷(JR・地下鉄「市ヶ谷」下車2分)
 演題 三島由紀夫と「ヒタメン」の世界(仮題)
 講師 岩下尚史(いわした ひさふみ)
     作家・伝統文化評論家、國學院大客員教授
     略歴 昭和36年生れ。熊本県出身。國學院大卒、新橋演舞場企画室長を経て作家・評論家に。平成19年『芸者論:神々に扮することを忘れた日本人』で和辻哲郎文化賞受賞。三島由紀夫を論じた『見出された恋:「金閣寺」への船出』や『ヒタメン』の著作がある。(いずれも文春文庫)
会費 会員・学生1千円、一般2千円
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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(C)三島由紀夫研究会 2018  ◎転送自由
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通巻第1263号

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月10日(火曜日)
         通巻第1263号   
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9月公開講座講師は作家・伝統文化評論家の岩下尚史氏に決まりました。
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 日時 9月25日(火)18時半開会(18時開場)
 場所 アルカディア市ヶ谷(JR・地下鉄「市ヶ谷」下車2分)
 演題 三島由紀夫と「ヒタメン」の世界(仮題)
 講師 岩下尚史(いわした ひさふみ)
     作家・伝統文化評論家、國學院大客員教授
     略歴 昭和36年生れ。熊本県出身。國學院大卒、新橋演舞場企画室長を経て作家・評論家に。平成19年『芸者論:神々に扮することを忘れた日本人』で和辻哲郎文化賞受賞。三島由紀夫を論じた『見出された恋:「金閣寺」への船出』や『ヒタメン』の著作がある。(いずれも文春文庫)

会費 会員・学生1千円、一般2千円
           ◎◎◎
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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派、そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
           ◎◎◎◎
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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(C)三島由紀夫研究会 2018  ◎転送自由
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posted by 三島研事務局 at 14:48| バックナンバー

通巻第1262号

「影山正治と維新文学」(後篇) 
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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月6日(金曜日)
         通巻第1262号   
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荒岩宏奨(株式会社展転社取締役編集長)
「影山正治と維新文学」   (後篇)
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                三島由紀夫研究会会員例会 (平成30年6月29日)

 ▲昭和維新の狼煙から神兵隊事件まで

 大正時代にも維新運動は展開されたのだが、少し飛ばして昭和の御代に移る。

 維新には「詩と剣」が必要である。文武両方とも必要なのだ。新国学は近世国学よりも「剣の精神」が強調されてゐる。これまでは、文学での国学が興り、その思想を根底に実践が行はれてきた。しかし影山は、昭和維新運動においては実践が先行し、国学がそれを追ふ形になつてゐるといふ見方をしてゐる。
影山が文学面で特に重要視するのは保田與重郎ら日本浪曼派である。

 光平の『南山踏雲録』のやうに、影山が自身の実践体験を記録したのが『一つの戦史』である。そこで、影山の維新文学である『一つの戦史』を参考としながら、昭和維新運動における実践と文学の流れを見ていく。

 昭和維新には五つの大きな事件がある。昭和七年の血盟団事件、同じく昭和七年に起きた五・一五事件、昭和八年の神兵隊事件、昭和十一年の二・二六事件、昭和十五年の七・五事件である。これらは「昭和維新の五大事件」と言はれる。戦後にGHQが日本の維新思想を抹殺しようとして、日本の司法当局と治安当局に資料を提出するように命じた。すると、超国家主義にもとづく代表的事件として、この「昭和維新の五大事件」といふリストが示されたのである。影山正治はこの「昭和維新の五大事件」のうち、昭和八年の神兵隊事件と昭和十五年の七・五事件に直接参画してゐる。

 それでは、昭和維新の実践と文学の流れ、詩と剣の流れを確認していく。

 昭和四年、影山正治は國學院大學に入学し、維新運動に挺身する。

 昭和維新運動は一発の銃声によつて幕が開いた。昭和五年、愛国社社員の佐郷屋留雄が東京駅で濱口雄幸首相を銃撃。濱口首相は東京帝国大学医学部附属病院に搬送されて手術し、一命をとりとめた。佐郷屋は裁判で、銃撃の理由を「統帥権を犯した」と供述。ロンドン軍縮会議で、陛下のご判断を仰ぐことなく軍縮を決定したことが統帥権干犯だといふ主張である。

 この事件は先ほどの五大事件のリストには入つてゐない。しかし、昭和維新の狼煙を上げたといふ点では、非常に重要な事件である。影山正治もそのやうな位置づけをして重要視してゐる。

 幕末には桜田門外で水戸浪士らが井伊直弼を討つたときに志士たちが奮ひ立つたやうに、佐郷屋の事件で多くの昭和の維新者たちが奮ひ立つたのではないだらうか。

 影山は『一つの戦史』でこの事件について次のやうに書いてゐる。

  昨日浜口首相東京駅にて狙撃さる。神命が降つたのだ。事を断じたのは愛国社の佐郷屋留雄氏。各新聞は一斉に暴力団の暴挙としてこれを葬り去らうとして居る。草刈少佐の時と同じだ。ジアナリズムの大罪言語に絶す。浜口雄幸「男児の本懐なり」の一語を発したとか。何が男児の本懐であるか。たゞこれ神裁のみ。(影山正治『一つの戦史』)

「神命が降つた」「たゞこれ神裁のみ」といふ文章から、事件を高く評価してゐることがわかる。

 また、影山の仲間の軍人は、濱口首相を倒さうとしたことには賛同できても、佐郷屋が浪人であることに反感があつたやうだ。影山はその軍人に次のやうなことを言つた。

 いやしく大丈夫が、親をも恩師、朋友、恋人をも棄てはてて死を決し、賊と呼ばれ、狂と呼ばれることを充分承知の上で立ち上ると云ふには、単に民政党とか政友会とかの党利党略のための倒閣運動に使はれて満足すると云ふやうなあやふやな気持では到底出来ることぢやないと思ふな。死後の一切を国家から保証され、靖国神社にお祭りされる軍人の死とくらべ、賊として扱はれることを覚悟の上の、このやうな純民間有志の死の決しかたは決して容易ではないぞ(『一つの戦史』)

 影山は『維新者の信條』で「維新者は正しい意味の浪人でなければならない」としてゐる。

 戦死すれば靖国神社にお祭りされる軍人よりも、死を覚悟した浪人の行動を評価してゐるのだ。これは影山が尊敬する内田良平の「憂国志士」といふ詩に通じる思想である。

 内田良平の「憂国志士」を紹介しておく。

生きては官に養はれ 死しては神と祭らるる 幸ある人の多き世に
  こは何事ぞ憂国の 志士てふものは国の為 尽しつくして草莽の
   伏屋の軒と朽ち果つる 弔ふものは泣く虫の 声より外に亡き後も
    不滅の精神皇国守る

官給受けし役人に 収賄事件続出し 華(か)冑(ちゅう)の子弟赤化して
 国体呪ふ国賊は 罪名重く刑軽し 憂国の志士雄健びて
  事向けすれば忽ちに 絞首台下に繋がるる 刑重くして凶漢の
   汚名に死すも皇国守る

 ▲襲撃の前に一礼

 草莽の志士は軍人や官僚のやうな高待遇を受けることがなく、獄に下らうとも、死刑にならうとも、汚名を着せられやうとも、皇国を守るために尽力するといふ詩で、これが維新者の精神である。

 なほ、佐郷屋は濱口首相に私的な怨恨があつたわけではない。銃撃に私心はなかつたのだ。実は、佐郷屋は狙撃する前、濱口に対して一礼をした。これを見た警察は佐郷屋を警戒せず、結果的に銃撃可能な状況をつくりだしたのである。
 戦後、佐郷屋は名を嘉昭と改め、右翼民族派が結集した全日本愛国者団体会議(略して全愛会議)の初代議長に就いてゐる。そして、
佐郷屋の弟子たちを佐郷屋一門と呼ぶ。

 平成十八年八月十五日、加藤紘一宅を焼き討ちした堀米正広は佐郷屋一門の系統である。この事件の裁判では、祖国正当防衛を主張した。これは野村秋介らがYP体制打倒青年同盟を名乗つて経団連を襲撃した、経団連事件の裁判で主張した民族当防衛と同じ理論である。経団連事件の森田忠明は影山のつくつた大東会館学生寮の出身であり、伊藤好雄、西尾俊一は三島由紀夫の楯の会の出身であつた。堀米裁判の判決では、国家危急の場合の正当防衛権は存在してゐるといふ文章があつた。ただし、今回の事件はその緊急性が認められないといふ判決内容だつたやうに私は記憶してゐる。

 また、今年二月二十日に桂田智司と川村能教(よしのり)の二人が朝鮮総連を銃撃した。このうちの桂田智司は、佐郷屋一門の系統である。
 このやうに、佐郷屋精神は戦後の右翼民族派にも引き継がれ、実践されてゐる。

 話を昭和維新運動に戻す。
 翌昭和六年、影山は國學院大學内に大日本主義同盟を結成して「大日本主義」といふ機関誌を創刊。そして、この活動を新国学のための種まき活動の一つであると位置づけてゐる。

 この年、十月事件があつた。橋本欣五郎ら桜会がクーデターを決行して荒木貞夫内閣の樹立をめざすといふ計画が露呈し、未遂に終はつた。影山はこの事件にも衝撃を受けてゐる。

 この事件に依る衝撃頗る大。もつともつと深く考へて見なければならぬ。軍中枢の諸君は既に観念や抽象理論ではなく身を挺してこゝまで考へてゐるのだ。もつともつと踏み込まねばならない。(『一つの戦史』)

 同じ年、内田良平が大日本生産党を結党、影山は第一回党大会に参加した。大日本生産党は昭和維新をめざす日本主義政党として結党された。顧問は頭山満である。
 昭和七年には、血盟団事件、五・一五事件と続き、昭和維新における実践活動が活発になつた。

 まづは二月九日、小沼正が民政党幹事長の井上準之助を射殺、三月五日には菱沼五郎が三井財閥総帥の団琢磨を射殺した。これらの事件の首謀者が井上日召でである。

 小沼正の事件について、影山は次のやうに記してゐる。

   本日井上蔵相暗殺さる。天下震愕。暗殺者は小沼正君と云ひ水戸の産なる由。遂に時至れるか。起るべきもの起れるのみ。驚くことなし。たゞこの事件の真の意義を我が胸中に生かさんことこそが大切。万感胸に迫りて夜更くるまで眠れず。寒風粛々、熱涙を止むるすべなし。(『一つの戦史』)

 このやうに、事件に対して夜も眠れず涙を流すほど感動した。

 そして菱沼五郎の事件については、次のやうに記してゐる。

  財界の巨頭団琢磨射殺さる。決行せるは菱沼五郎君。小沼君と同じく水戸の産。井上蔵相のことに相次いでこのことあり、満天下愕然。支配階級の狼狽その極に達し、社会不安益々深刻となる。

  火はすでについたのだ。昭和維新の火が。(『一つの戦史』)

 影山は、血盟団事件により昭和維新の火がついたといふ認識を持つたやうである。
 なほ、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたのだが、紀元二千六百年祝賀の特赦によつて六年ほどで出所。名を小幡五朗と改めた。
そして、戦後は自民党から出馬し、茨城県議会議員を連続八期つとめた。そして県会議長にもなつた。

 昭和七年五月十五日には海軍の古賀清志と三上卓、そして橘孝三郎の愛郷塾らによる五・一五事件が勃発。このときのことは、次のやうに書かれてゐる。

   今夕軍部青年将校蹶起。犬養首相射殺され、政・民両本部、警視庁、牧野宮相邸襲撃さる。来るべきもの続々として来たる。感無量。ひそかに決し、ひそかに誓ふところあり。人心乱を思ひ世情騒然。諸友と深更まで語る。互にはげまし合ふ。維新を念願するものの重大決意をなす秋だと云ふことを身にしみて思ふ。何とはなしによる、長い手紙を彼女に書く。(『一つの戦史』)

 この文章からは、このときに自分も実践活動で続くといふ決意と覚悟を、リアリティをもつて考へたのではないだらうか。

 血盟団事件と五・一五事件について、影山は「五・一五事件一周年記念大同クラブ報告書」で次のやうに書いてゐる。

  我等の同志、血盟団事件の青年志士達は切迫せる公判を控へて闘志愈々熾んであり、更に五・一五事件の青年将校農民同志達は、無気味な世相の真只中に厳然と支配階級を睨み付けてゐる!

   我等の大同クラブは歴史的五・一五事件の一周年記念に際し、さゝやかな努力の跡を誌し、全国の同志と共に獄中の諸同志の壮志を無にすることなく、君国のために起たん日に備へんとするものである。

 これは昭和八年五月十五日づけで書かれた文章である。血盟団、五・一五事件の参画者を同志とし、それに続かうといふ気迫がみなぎつてゐる。

 昭和七年七月、影山はこれらの事件を機に学内活動の一戦から退いて、対外的な国民運動を展開するために大日本生産党に入党した。

 昭和七年には、昭和維新の実践活動を追ふ形で文学運動が展開する。東京帝国大学の学生である保田與重郎らが『コギト』を創刊したのがこの年であつた。
影山は『コギト』創刊を保田與重郎の線における新国学運動の種まきが開始されたといふ捉へ方をしてゐる。

 そして昭和八年七月十一日、影山は神兵隊事件で検挙される。神兵隊事件とは、愛国勤労党や大日本生産党などを中心に、陸海軍の青年将校も加はつたクーデター未遂事件である。他の事件と違つて、破壊部隊と建設部隊に分かれてゐたといふ特徴を持つてゐる。しかし、事前に事件の情報が警察に漏れてゐたので、蹶起のために集結したところを検挙された。『一つの戦史』には、ここまでのことが日記小説として書かれてゐる。
この事件によつて、影山は二年半の獄中生活を送ることになつた。

 ちなみに、神兵隊事件の判決が出るのは八年後の昭和十六年である。「朝憲紊乱(びんらん)を目的とする内乱予備罪」で裁判に問はれたので、神兵隊は「朝憲紊乱ではない」と主張する。
さらに、事件を「朝憲紊乱」目的とするのは裁判官が国体を理解してゐないからだとして、裁判官に国体とは何かを問ひ糾す国体明徴運動を裁判で展開。そして、朝憲紊乱ではないので内乱罪には該当しないけれども、殺人放火予備罪などにはあたるので有罪、しかし刑を免除するといふ異例の判決が出る結果となつた。裁判闘争では神兵隊が勝利したのである。
 
 ▲出所後の昭和維新運動

 ここまでは実践活動が活発だつたのだが、昭和十年あたりからは文学運動が活発になつてくる。
  昭和十年三月、影山が獄中生活を送つてゐるとき、保田與重郎らによつて『日本浪曼派』が創刊された。そしてこの年の秋に、影山は出所して維新運動に復帰した。

 昭和十一年、影山は維新寮を創設。この年、昭和維新の実践活動としては二・二六事件が発生した。そして文学面では影山正治が歌集『悲願集』、保田與重郎が『日本の橋』を出版してゐる。昭和十一年は昭和維新の実践面でも文学面でも大きな動きがあつた重要な年だと言へる。

 昭和十二年九月、影山は維新寮を主体として日本主義文化同盟を結成し、機関誌『怒濤』を発行。
 翌昭和十三年、影山が『怒濤』五月号に「林房雄に寄す」を掲載したところ、林房雄は影山の論文に応へる「美と力と詩人」といふ論文を『新潮』七月号に寄稿した。

 最近、日本主義文化同盟の機關紙『怒濤』に於て、私は激しい批判をうけた。(中略)林房雄論をなすために三箇月の準備を費したと書いてある。確かにそれに違ひない文章であつて、間々毒舌と罵倒に似た言があつても、匿名批評流の無責任な惡罵ではなく、私の思想的文學的經歴は詳細にたどられて、殆ど餘すところがない。その言は一々私の心を撃つものがあつた。(林房雄「美と力と詩人」)

 そして日本主義文化同盟は「林房雄氏を囲む座談会」を維新寮で開催した。林房雄は、維新寮の窪田雅章に案内されて維新寮をを訪ねたのである。そして、日本主義文化同盟と五時間にわたつて語り合つた。

 またこの年、中河與一が影山の歌集『悲願集』を推賞する文章を「日本短歌」昭和八月号に掲載。そこから書簡での交流が始まつた。そして影山が「東亜日日新聞」に「中河與一の文学」を連載する。

 そして同盟結成一周年記念号である『怒濤』九月号には倉田百三、中河與一、林房雄の文章が掲載された。影山と保田與重郎との出会ひもこの昭和十三年の年末であつた。

 昭和十三年から十四年にかけて、日本主義文化同盟には、倉田百三、林房雄、保田與重郎、浅野晃、尾崎士郎、大賀知周、藤田徳太郎らが集つた。ここで、影山と日本浪曼派系文学者が合流して文学運動を展開し、それが新国学へと発展することになる。影山は「日本主義文学運動」や「日本浪曼派運動」から「新国学運動」への転換は、昭和十四年の春からだとしてゐる。

 昭和十四年四月三日、影山は大東塾を創立した。塾監として、徳田宗一郎、藤村又彦、摺建一甫、白井為雄ら四名が就任。顧問には井田磐楠、小林順一郎、吉田益三、前田虎雄、梅津勘兵衛、倉田百三、田尻隼人、永井了吉、八幡博堂、鈴木善一ら十名が就任した。その理由を影山が次のやうに述べてゐる。

   開塾當初に於ける、このやうな、やや幅の廣い顧問、塾監の人選方式の間には、大東塾創設の最も大きい當初目標たる再蹶起企圖を祕匿するためのカモフラージ的意味が多分にあつた。このへんの眞意を知るものは、ただ前田虎雄氏と僕の二人だけであつた。(中略)

   前田氏と僕の間で、再蹶起のため據點構築をめざして塾開設の計畫が最初に話し合はれたのは前年(昭和十三年)末の頃で、二人の分擔は、前田氏が、創設と維持に要する一切の資金を作る、僕がそれを用ゐて創設と運營の全責任を負ふといふことであつた、前田氏はただ默々として必要資金を調達し、一切すべてを僕にうちまかせ、一言半句も口をさしはさまなかつた。(影山正治『日本民族派の運動』)

 大東塾の創設は前田虎雄との話し合ひで、再蹶起の拠点をめざして開設されたのだ。前田虎雄とは、神兵隊事件の中心人物の一人である。ここでの「再蹶起」とは、未遂となつた神兵隊事件のやうな昭和維新断行を再度決行するといふことを意味してゐる。

 大東塾の機関紙「大東報」創刊号には次のやうに書かれてゐる。

  「我等は大東維新の戰士たらむと念願する。大東維新とは大東洋維新のことである。そしてそれは本塾塾誓にもある如く内は日本維新に、外は世界維新につながつて居る。この三者は常に不可分の關係にある。切り離すことは出來ない」(影山正治『日本民族派の運動』)

 大東維新とは、東洋の維新といふ意味だとしてゐる。そしてそれは、東洋の維新だけでなく、日本維新、世界維新とも不可分の関係にあるとしてゐる。

 そして、明治維新と昭和維新の違ひについてかう述べてゐる。

 明治維新は國内維新に止まつた。それは明治維新の本質から云つて當然のことであつた。しかし昭和維新は國内維新のみに止まることなく、更に滿・支を中軸とする大東維新の實現にまで進まなければならない本質をもつて居る。

 まづは、日本国内の維新を断行し、さらにその次は東洋の維新もめざす組織として、大東塾が創建されたといふことになる。その国内維新の断行の具体的な計画が、未遂となつた神兵隊事件の再蹶起だつたのである。

 昭和十五年、影山は七・五事件で検挙された。七・五事件は第二神兵隊事件と呼ばれることもある。大東塾創設の目的は昭和維新断行のための再蹶起であつた。影山は、日本主義文化同盟で日本浪曼派の文学者と深く交流して文学運動に携はる傍ら、前田虎雄とは再蹶起を計画し、大東塾を開設したのだ。そして、資金、人材、武器を調達し、襲撃目標も定め、いざ蹶起のために集結してゐたところを一斉検挙された。

 その後、影山は取り調べ中に悪性貧血症で倒れて警察病院にかつぎこまれた。一度は警察病院を出て拘置所に移つたのだが、再び病状が悪化。医務課長から「所外医療を要す」との上申書が出たため、広尾病院に入院することとなつた。そして危篤状態に陥るも、快復した。

 危篤状態のなか、影山は塾生に保田與重郎の『日本の橋』の重要性について次のやうに話してゐる。

  〈日本の橋〉といふのは、先き程も云つた通り、〈?と日本人、天皇陛下と日本人、日本人と日本人同士を結びつける橋〉だ。いいか、〈日本の橋〉になることが我々の念願なのだぞ。(『影山正治全集 第二十七巻』「昭和維新と新國學」)

 影山は保田の『日本の橋』を重要視してゐたのである。

 そして、昭和十六年三月二十七日には吉田益三を身柄引受人として責付出所となり、四月二十三日に広尾病院より退院許可が出てゐる。

 昭和十六年四月十日付で、ぐろりあ・そさえてといふ出版社から「新ぐろりあ叢書」の十八冊目として影山正治の歌集『みたみわれ』が出版されてゐる。この出版の世話にあたつたのが保田與重郎であり、影山はこの「新ぐろりあ叢書」は、広い意味での日本浪曼派叢書と位置づけてゐる。

 そして、八月には日本主義文化同盟を文化維新同盟と改称した。そのときに次のやうな宣言が発表されてゐる。

  昭和十二年九月、吾人ハ日本主義文化同盟ヲ結成シ、機關誌『怒濤』ヲ發行シ、唯一ノ文化維新運動トシテ奮鬪シ來タリシガ、昨昭和十五年六月ヨリ機關誌ヲ『文化維新』ト改名、運動ノ刷新飛躍ヲ企圖セリ。然シテ今囘新同人ノ多數參加ヲ見ルト同時ニ此ノ運動ヲシテ昭和維新ノ新國學運動タラシムベク再出發ヲ決意シ、一大飛躍ヲ爲スニ當リ、本同盟ハ日本主義文化同盟ノ名ヲ文化維新同盟ト改稱スルコトニ決定セリ。右天下ニ通告ス

 ここで、文化維新同盟と改称して再出発する主旨は「昭和維新ノ新国学運動」であると明言してゐる。ここで、影山らによる文学運動は、日本主義文学や日本浪曼派文学を経過して新国学へと発展したのである。

 この年の十一月には、「新国学と歌道」を掲げて『ひむがし』を創刊。発行は短歌維新の会であつた。

 翌年七月に文化維新同盟が解散して、機関誌『文化維新』が終刊となつた。そこで、短歌維新の会を「新国学協会」と改称して、新国学協会が『ひむがし』を発行し、新国学運動を展開することになつた。

 戦後には新国学協会は不二歌道会、『ひむがし』は『不二』に名前を変へて、新国学運動が受け継がれてゐる。

 戦前の昭和維新における、影山正治を中心とした新国学運動はこのやうな流れになつてゐる。

▲影山正治の天皇観

 影山正治は国学を「国体の学び」と捉へてゐた。上代国学から新国学まで一貫してゐるのは天皇である。そこで最後に、影山の天皇観を確認しておきたい。

 天皇陛下を、「あまつひつぎ(天津日嗣)」と申しあげる時は、主として縱の關係の中心點であられることを、「すめらみこと(皇尊)」と申しあげる時は、主として横の關係の中心點であられることを現はして居る。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

 天皇の御本質を知るためには、天皇のことを申し上げる本来の日本語――やまとことばで考へる必要がある。そのなかでも代表的なのが「あまつひつぎ」と「すめらみこと」であり、それは縦の関係の中心点、横の関係の中心点であられるのだ。

 まづは「あまつひつぎ」といふ言葉を確認していく。

 影山は、「あまつひつぎ」とは「大いなる〈ひ〉であられる皇祖天照大御?の靈と血と道と生命とを無窮に継ぎ継がれる日本國の中心のお方」のことだとしてゐる。

 「あまつ」の〈あま〉は天であり、天照大御神や高天原のことであらう。そして、〈つ〉は格助詞の「の」にあたる。

 「ひつぎ」の〈ひ〉とは、生命の核心のことを言ふ。魂とか霊魂と言つてもいいだらう。生命の核心である〈ひ〉がとどまつたものを〈ひと〉といふ。その男性が〈ひこ〉であり、女性が〈ひめ〉である。

 そして、〈つぎ〉とは継承する、継ぐといふことである。

 高天原の天照大御神の生命の根源、魂をずつと継いで来られてゐるご存在が「あまつひつぎ」であり、天皇なのである。したがつて、「あまつひつぎ」は時間的なつながりであり、影山は縦の関係の中心点と表現してゐるのだ。

 次に、「すめらみこと」について見ていく。

 「すめらみこと」の〈すめら〉とは「すべら」のことで、「統べる」「総べる」「治べる」の意味があり、結びとかつながりの役割のことを指してゐる。

 〈みこと〉とは生命のことであるとともに、言葉や使命のことをあらはす言葉でもある。我々が生きてゐる使命とは、天照大御神の神勅をこの国土で実現することなので、使命と言葉と生命は直結してゐる。

 したがつて、「すめらみこと」とは、生命をすべる、言葉をすべる、使命をすべるといふ意味がある。「あまつひつぎ」が時間的なつながりを意味してゐるとするならば、「すめらみこと」は空間的なつながりを意味してをり、影山は横の関係の中心点であると表現してゐる。

 生命の根源を時間的に、空間的につなぐ、結ぶといふ重要な役割を担つていらつしやるのが天皇なのである。

 保田與重郎は『日本の橋』で、橋とは道の端と道の端をつなぐものであるとしてゐる。「はし」とは何かと何かを結ぶものなのだ。なかなか気づかないかもしれないのだが、保田與重郎の『日本の橋』は、実は天皇の御本質を描き出してゐるのだ。

 そして影山は、次のやうに述べてゐる。

「すめらみこと天皇」は、皇居の中にだけ居られるのではない。わが生命の中にも居られるのだ。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

 天皇が私たちのなかにいらつしやる、天皇陛下の大御心が私たちの心のなかにもあると考へてゐるのだ。

 そして、「みわみわれおのれ恐むわが内に天津日嗣は神づまります」といふ歌を詠んでゐる。わが生命の中にも天皇がいらつしやる、我々の心のなかにも天皇の大御心が宿つてゐるからこそ、陛下の臣民であるといふ感動を得ることができるのである。これが「みたみわれ」であり、君民一体のわが国の思想が現れてゐるのだ。

 さて、最後にいはゆる「人間宣言」に対する考へを紹介しておく。

  もともと「あらひとがみ」であられ、「あきつかみ」であられる 天皇陛下が「神」であられながら、同時に「人」であられることは、はじめから解りきつたことなのだ。食事もされるし、戀愛もされるし、大小便もされる。『萬葉集』開卷第一の歌が、 雄略天皇の明るい戀愛の歌で始まつて居り、『古事記』 神武天皇のくだりには 天皇の美しい戀物語が詳しく語り傳へられて居る。自然人の一面をもつて居られればこそ、古來帝王學と云つて人間修業のために刻苦勉學をされて來たのだ。戰後、占領軍の強要した「人間天皇宣言」といふやうな考へ方は、全く「天皇の御本質」を知らない西洋式、クリスト教流の大錯覺にほかならないのだ。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

 私も、天皇は神でもあり、人間でもあると考へてゐる。

 保田與重郎も「天皇は萬葉の昔、いなもつと上古から人間であらせ給うた」と述べてゐる通り、天皇はずつと昔から人間でもあられたのである。いはゆる「人間宣言」によつて、人間になられたわけはない。また、神でなくなられたといふわけでもない。

 「人間宣言」をされようが、されまいが、 天皇陛下が「あらひとがみ」としての「?」であられ、「あきつかみ」としての「?」であられることには一點の變りもない。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

 西洋の唯一絶対神、創造神ゴッドと日本の神は、そもそも概念がまつたく違ふ。西洋のゴッドは人間をつくつた創造神であり、唯一絶対の存在である。しかし、日本の神は人間を産んだご存在であり、人間の祖先でもある。

 宣長は、日本人の神観を次のやうに定義してゐる。

凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノミフミドモ)に見えたる天地の諸(モロモロ)の?たちを始めて、其を祀れる?に坐ス御靈をも申し、又人はさらにも云(イハ)ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(ソノホカ)何にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる?(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微と云なり、【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きも奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、?と云なり、(本居宣長『古事記傳』「?代一之巻」)

 宣長によると、人智のおよばないものすべてが神なのだ。天皇はゴッドではなく、神であるとともに人間でもあられるといふご存在で、この点は非常に重要だと私は思つてゐる。

 来年四月末日で今上陛下が御譲位あそばされ、五月一日に新帝が践祚あそばされることが決定してゐる。今まで以上に、天皇や皇室に国民の関心が集まるだらう。そこで、我々はこの期に今一度、天皇の御本質について考へるとともに、国体とは何かを深く考える、新国学運動、国体明徴運動を展開しなければならない。そして、その思想や足跡を記録するのが、現在の維新文学である。

 また、現在の保守派でも元号ではなく西暦を使用する人が多い。影山正治は元号法の制定を祈念して自決したのである。
ぜひとも、元号を使用するやうに心掛けてもらひたい。
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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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通巻第1261号

「影山正治と維新文学」(前篇) 
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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月5日(木曜日)
         通巻第1261号   
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荒岩宏奨(株式会社展転社取締役編集長)
「影山正治と維新文学」(前篇)
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                三島由紀夫研究会会員例会 (平成30年6月29日)

 ▲影山正治の略歴

まづは影山正治の略歴を紹介する。
 明治四十三年、影山庄平と歌の長男として愛知県豊橋に生まれる。
 大正十三年、豊橋中学を受験して入学。
 昭和四年、國學院大學に入学して上京。弁論部に入部して日本主義者・松永材(もとき)の指導を受ける。昭和五年には同人雑誌『豊橋文学』を創刊するなど文学をしながら、政治活動も行ふ。
 昭和六年、全国大日本主義同盟を結成。そして、その代表として大日本生産党の第一回大会に出席。翌昭和七年に大日本生産党に入党。
 昭和八年、神兵隊事件に連座して逮捕。二年半を獄中で過ごすことになつた。
 昭和十年に仮出所。昭和十一年には獄中作を集めた歌集『悲願集』を出版。この年に維新寮を開設してゐる。昭和十二年には日本主義文化同盟を結成して、機関誌『怒濤』を創刊。この機関誌が日本浪曼派系の文学者たちと関はるきつかけとなる。
 昭和十四年、大東塾を創立。昭和十五年には七・五事件で逮捕。
 昭和十六年には短歌維新の会を結成し『ひむがし』を創刊。同年、大東塾出版部を設置、顧問には尾崎士郎、保田與重郎、浅野晃、林房雄など日本浪曼派系の文学者が就任してゐる。
 昭和十九年には応召となり、北支に出征。これは東條英機を批判したことに対する懲罰出征と言はれてゐる。
 昭和二十年八月二十五日、影山が復員する前に影山庄平ら大東塾十四人が代々木練兵場(現在の代々木公園)で集団自決。共同遺書は「清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ」である。この十四人は大東塾十四烈士と呼ばれてゐる。
 昭和二十一年一月、大東塾はGHQにより解散させられた。同年五月、影山が復員すると『ひむがし』の後継誌として『不二』を創刊。このときの発行は不二出版社だつた。昭和二十二年には宮中勤労奉仕を実施。このときから毎年勤労奉仕を行つてゐるので、おそらく継続してゐるなかでは一番古い奉仕団ではないかと思ふ。
 昭和二十三年には『一つの戦史』を非合法出版。この本の本格的な出版は昭和三十二年である。

 昭和二十四年、不二出版社を不二歌道会と改称。昭和二十九年には大東塾を再建した。その後も精力的に出版活動をしながら、紀元節復活運動などの政治運動も展開。昭和四十四年には、『日本民族派の運動』を出版。これが、戦後初の商業出版となつた。さらに『増補版 維新者の信條』も出版し、この本は今でも民族派の必読書として読み継がれてゐる。また、青梅に大東農場を開き、大東神社の創建なども行つてゐる。

 そして昭和五十四年、元号法の法制化を祈り、大東農場内で自決。辞世は「民族の本ついのちのふるさとへはやはやかへれ戦後日本よ」と「身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに」であつた。

 このやうに、影山正治は昭和維新運動に挺身した。また、歌人としても有名で、文学面においては林房雄や保田與重郎など日本浪曼派の文学者たちとは深い交流がある。「詩(うた)と剣(つるぎ)」を兼ね備へた人物である。

▲三島由紀夫との交流

次に、影山正治と三島由紀夫の交流について触れておく。
 古林尚(たかし)との対談である「三島由紀夫 最後の言葉」で三島由紀夫が次のやうに述べてゐる。

 このあいだ真継伸彦さんが、三島は戦争中に影山正治(国粋的な歌人で神兵隊事件に参加)と会っている、と何かに書いておられたのを読みました。だが、あれは間違いで、影山さんにはこれまでたった一度しか会っていないのです。ある人の結婚式の仲人を影山さんがなさったときに、ちょっと挨拶をしただけなんです。批判はよいけど、そういう誤伝をいろいろ言われると困りますよ。(『三島由紀夫全集40』「三島由紀夫 最後の言葉」)
 この対談が行はれたのは昭和四十五年十一月十八日。三島由紀夫が自決する一週間前であり、まさに最後の対談である。この対談は活字だけでなく音声としても発表されてゐる。

 いつ、誰の結婚式で会つたのか調べてみると、影山正治が次のやうに述べてゐた。

問 三島由紀夫氏とは一度だけ會はれたんださうですなー。

答 昭和二十九年の三月末、大東塾が再建宣言を發するすぐ前に終戰直後、學徒出陣から歸つて、再び國學院大學に復學した頃から、ずうつと地下時代の大東塾へ出入りして、中堅同志の一人になつてゐた伊澤甲子麿君が結婚式をあげ、無理々々に懇請されて僕が仲人になつたのですが、その時、友人代表の一人として出席してゐた三島君と初めて會つて色々話したのです。僕はすつかり忘れてしまつてゐますが、先年或る人に「あの時の影山さんの仲人挨拶は大したものだつた」などと語つてゐたさうです。この時一囘だけです。その後は、主として伊澤君を通じて、雙方が雙方の状況を知り、心を通はせ合つてゐたと云へるでせう。『林房雄論』の頃から、急に、ぐうつと近づいて來る感じでした。それ以前は、どちらかと云ふと、避けてゐたのではないかと思はれます。あの『日本民族派の運動』に對する推薦文も、出版屋さんが是非といふので、伊澤君に頼んで話してもらい、直ちに快諾して書いてくれたものです。(『影山正治全集 第十九巻』「昭和の?風連」)

 影山も、三島に会つたのは昭和二十九年の一度だけと発言してゐるので、両者の発言が一致してゐる。
真継が何を根拠に影山と三島が戦争中に会つてゐると書いたのかわからないが、それは間違ひだらう。ちなみに伊澤甲子(きね)麿(まろ)とは、伊澤修二の孫である。

 実際に両者が会つたのは一度だけなので、あとは書簡などでの交流が少しあつた程度だと思はれる。
 『三島由紀夫全集』には、三島から影山に宛てた葉書が一通だけ収録されてゐる。昭和四十二年三月二十三日、三島が影山宛に宛てたその一通の葉書には次のやうに書かれてゐる。

 御高著「明治の尊攘派」有難く拝読いたしました。不勉強にて増田宋太郎のことよく存じませんでしたので、御高著で目をひらかれ、反福沢的思想の清冽なる源流として、感銘深く拝読しました。御高著の史観に諸手(もろて)をあげて賛成いたします。何やら、このごろ、現在の日本が明治維新直前のやうな気がしてなりません。(『三島由紀夫全集38』)

 葉書には昭和四十二年二月に影山が出版した『明治の尊攘派』の簡単な感想が書かれてゐる。

 昭和四十四年に影山正治の『日本民族派の運動』(光風社書店)が出版された。この本は、昭和十四年の大東塾創建から昭和二十年の大東塾十四烈士の自決までの大東塾の歴史がまとめられてゐる。

 この本に三島由紀夫が「一貫不惑」といふ推薦のことばを寄せてをり、影山正治の人物像についても書いてあるのでその部分を紹介しておく。

   影山正治氏が昨今ますます輝いてきたのは、その一貫不惑のゆゑであり、人々に怖れられてゐるのも、その一貫不惑のゆゑである。私は必要あつて數年前から、?風連の研究をはじめ、影山氏がその思想的源泉とするこの事件が、西歐に對する日本の最後の果敢な抵抗として、文明史的意義を有することを知つた。これを知ると共に、影山氏の運動が、凡そ文化の本質に觸れてゐることを確認するにゐたつたのである。

 勿論以前から、終戰時に於る大東塾の集團自決が、一體何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。?風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に觸れた行動であることが理解されたのであつた。

 影山氏の『日本民族派の運動』を讀む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、更に興趣を増すことと思はれる。氏はおそろしいほど實證的であり、歴史を正す一念に於て、博引旁證、及ばざるところがない。忘れつぽい日本人から見ると、その點、却つて日本人離れがしてゐる。(三島由紀夫「一貫不惑」)

 ▲三島の影山評価、『奔馬』のモデルか?

 三島は、影山の運動が「本質に觸れてゐる」とか、影山を「おそろしいほど實證的であり、歴史を正す一念に於て、博引旁證、及ばざるところがない」と評価してゐる。

 この「一貫不惑」で三島は、数年前から神風連の研究をはじめてゐると書いてゐる。これは、小説・豊饒の海第二巻『奔馬』を書くためだと思はれる。

 その『奔馬』の主人公・飯沼勲のモデルになつたのが影山正治だと言はれてゐる。「春の雪」創作ノートでは、第二巻の構想として「北一輝のモチーフ、神兵隊のモチーフ」と書かれてをり、さらに「神兵隊事件訴訟記録」とか「血盟団事件の忠実な再現」とも書かれてゐる。したがつて、第二巻は血盟団事件や神兵隊事件を参考にしたやうである。

 ただし、影山正治に直接取材した形跡はない。影山正治の國學院大學の後輩である毛呂清輝に取材してゐる。毛呂清輝は、影山と同じく学生時代に大日本生産党に入党し、活動してゐた。そして、影山とともに神兵隊事件に連座した。三島はこの毛呂清輝から学生時代の政治運動や神兵隊事件に関することを聞いてゐる。おそらく、毛呂への取材から影山正治の名前が何度か出てきたのだと思はれるが、創作ノートには影山の名前が何度も記されてあつた。したがつて、飯沼勲のモデルの一人が影山正治であることは間違ひないだらう。

▲三島事件に対する評価

次に、三島事件に対する影山の評価を見てみる。
事件直後、大東塾・不二歌道会の機関誌『不二』で、「三島事件に対する所見」を発表した。

  一、今囘の三島事件に就いて所見を表明する前に當り、何よりもまづ我等は、三島由紀夫、森田必勝兩士の忠死に對し深甚なる敬追の意を表し、その英靈に向つて至心に低頭合掌して止まないものである。(『影山正治全集 第十九巻』「三島事件に対する所見」)

 このやうな文章から始まる。

 その後、事件の様子などが記され、三島事件に対する中曽根長官などの「狂気の沙汰」発言を批判し、三島に対しては次のやうな評価をしてゐる。

 一、何よりも武人であるべき自衞隊高級幹部が、その居城の本丸天守閣内に於て、終始非武人的態度を以て右往左往して居る間に、文人である三島由紀夫氏の方が、終始武人・武士として行動し、武人・武士として最期をとげたのである。武士として扱ふべきである。(同)

 当時はほとんどが三島事件を「狂気の沙汰」と見てゐたのだが、影山は三島を武士として扱ふべきであるとしてゐる。

 また、次の影山の見方は、独特な見解だと思ふ。

一、自衞隊としては、相手が三島由紀夫であれ、誰であれ、あの場合、斷乎として侵入者、占領者を撃ち殺すべきであつたのである。この場合、相手が誰れであるか、相手の思想がどうであるかなど問題にならない。そのためには總監が殺されても止むを得ないのである。そんなところに一點の躊躇逡巡もあつてはならないのである。それは憲法問題とか何とかのずつと以前の問題である。「軍」といふものの基本的な在り方の問題である。即ち撃ち殺すことによつて三島側も眞に生き、自衞隊側も眞に生きることができたのである。(同)

 三島事件を論ずる場合、三島や楯の会の視点からのみ語られることが多いのだが、影山は三島事件を評価しながら、自衛隊の視点から論じることも忘れてはゐない。
どのやうな思想を持つてゐたとしても、侵入者、占領者を撃ち殺すべきであつたと述べてゐる。三島の檄文では、機動隊が治安出動して学生紛争を封じ込めたことに絶望したことが書かれてゐるので、自衛隊に侵入、占領した三島が射殺されることにより、三島が真に生きることができるといふ評価は私もその通りだと思ふ。

 そして、少し省略して、次のやうに続く。

一、今囘の三島事件の場合にも、「何より總監の生命を助けることが第一」といふ低俗ヒューマニズムの介入が、自衞隊をして無力化せしめ、全世界に恥をさらさせた重大要因となつたのではないか。自衞隊は實質的な軍隊である。軍隊が警察に守られて居るやうでは問題にならないし、緊急事態に當つて敵を撃ち殺し得ないやうな軍隊は軍隊ではないのである。(同)

自衛隊が警察に守られてゐといふ問題点を指摘してゐる。

 この事件のとき、自衛隊は警察に守られる存在だつたのだが、現在の防衛省の前を守つてゐるのは民間の警備会社である。軍隊たりえないどころか、自衛隊の自衛もできないのかと思つてしまふ。この問題点は、憲法改正を待たずにすぐにでも改善してもらひたい。三島事件がまつたく活かされてゐないとしか思へない。

▲近世国学の起こり

それでは本題に移る。

 影山正治は自身の文学運動を「新国学」と位置づけてゐる。柳田国男も自らの学問を「新国学」と名づけてゐるのだが、柳田国男や折口信夫らの新国学とは異なる。

 影山正治は、「国学」を「国体の学び」だとしてゐる。そして、新国学は江戸時代の国学の延長上にあると捉へてゐるのである。影山は江戸時代の国学を「先代国学」とか「近世国学」と呼ぶ。その「近世国学」の前には「中世国学」があり、その代表として北畠親房の『神皇正統記』を挙げる。さらにその前には「上代国学」があり、『古事記』編纂を挙げてゐる。しかし、さすがに『古事記』などの「上代国学」にまでさかのぼると、本題である影山正治までたどり着けないので、新国学の一つ前の近世国学からの流れを確認していく。

 国学の祖は真言宗僧侶の契沖である。影山正治は国学が発したのは契沖であるとしながらも、その出発点は水戸光圀であるとして、光圀を非常に重要視する。

 元禄五年、水戸光圀は現在は湊川神社となつてゐる場所に「嗚呼忠臣楠子之墓」といふ碑を建立した。この碑の建立は、国学だけでなく日本の思想史においても重大であり、影山はこのことにより「維新の種」がまかれたといふ捉へ方をしてゐる。

 それまで、楠木正成は朝敵とか逆賊とされてきた。しかし、「嗚呼忠臣楠子之墓」といふ碑を建てたといふことは、それまでの楠木正成に対する評価と真逆の評価をするといふことになる。光圀は楠木正成に対する評価を、朝敵から忠臣へと、百八十度転換させたのだ。影山正治は、ここに維新の芽生えを感じ、契沖よりも水戸光圀を重要視するのではないだらうか。

 光圀は、下河辺長流に万葉集の注釈を依頼した。ところが、下河辺は病のためにこの依頼を果たせなくなつてしまつた。そこで、この仕事を契沖に託した。仕事を引き継いだ契沖が完成させたのが『万葉代匠記』である。

 契沖は『和字正濫抄』を書いた人物である。この本によつて、それまで使はれてゐた定家かなづかひの間違ひを指摘し、古典でのかなの使はれ方から、正しいかなづかひを明らかにした。その後、本居宣長らが修正を加へ、歴史的かなづかひが整理されたのである。

 国学の流れは、契沖から荷田春満、賀茂眞淵、本居宣長へと受け継がれていつた。宣長から平田篤胤は直接の教へではないのだが、篤胤は宣長の歿後の門人として国学を受け継いだ。春満、眞淵、宣長の三人は国学三大人と呼ばれてゐる。この三人に平田篤胤を加へて国学四大人と呼ぶこともある。この四人の国学は非常に重要なのだが、この四人を確認していく時間がないので、本日は名前だけにとどめておく。

 幕末になると、国学、水戸学、崎門学などを基盤として、尊皇思想が高まり、尊皇攘夷、尊皇討幕の運動が起こつてくる。契沖、春満、眞淵、宣長の国学はあくまでも学問であり、実践的行動によつて世の中を変革するといふ思想が強かつたわけではない。篤胤は多くの門人ネットワークを駆使して情報の受信や発信をしてゐたので、その点では実践的といへるかもしれない。現在でいふところのインテリジェンスみたいなものだ。

 国学が学問の域にとどまらず、実践活動へと踏み出したのは幕末である。国学を基盤とする尊皇攘夷思想、尊皇討幕思想を、勤皇の志士たちが実践したのだ。学問をする人と実践行動をする人は別々であるといふ場合がほとんどだが、なかには実践活動へと乗り出す国学者も現はれた。

 その代表者の一人として、伴林光平を挙げておく。光平は明治維新のさきがけである天忠組に参画した国学者である。国学は伴信友に学んだ。もともとは教恩寺といふ寺の住職で、門人に国学や歌を教へてゐたのだが、住職を辞めて寺を棄てる。寺を去る日、次の七言絶句の漢詩を壁に書いた。

本是神州清潔民 もと是れ神州清潔の民
  誤為仏奴説同塵 誤って仏奴となり同塵を説く
 如今棄仏仏休咎 今にして仏を棄つとも、仏咎むるを休めよ
  本是神州清潔民 もと是れ神州清潔の民

 還俗した光平は、勤皇の志士たちとの交流を深めた。そして、天忠組の挙兵を聞くと現場に駆けつけて、記録の役割を担当するかたちで参画した。天忠組が敗れると、光平は大阪へ逃れようとしたのだが、途中で捕まつてしまふ。そして、獄中で『南山踏雲録』を執筆して天忠組の戦跡を遺し、京都で斬首された。
『南山踏雲録』は明治維新のさきがけを記録した著作であり、まさしく維新を記録した文学、維新文学に当たるだらう。

 昭和の御代になると、保田與重郎がこの『南山踏雲録』を重視し、注釈をつけた本を出版してゐる。そして、影山は『天忠組への道』を大東塾出版部から出してゐる。

 影山は自身の『天忠組への道と』保田の『南山踏雲録』について、次のやうな評価をしてゐる。

 この二册は、「先代國學」と「新國學」、「明治維新」と「昭和維新」の、根柢に於けるつながりと、それぞれに於ける特色とを明らかにする上の大切な文獻と云つてよいのでせうが、『南山踏雲録』は、明らかに『天忠組への道』に收録された二著作の影響を受けて居るわけで、『南山踏雲録』の例言の中には、特に「史料や談話や文書や」に於て「直接間接に援助をうけた人々」として六名を舉げ、懇切な謝辭を述べて居るのですが、その筆頭に僕の名前が舉げられて居るわけです。(『影山正治全集 第二十七巻』「昭和維新と新國學」)

 
 近世国学は明治維新の思想基盤となり、維新の志士たちに大きな影響をおよぼした。そして、明治維新後には、国家体制を整へるときにも多くの国学者が活躍したのである。

▲明治の第二維新運動

 新国学はこの近世国学の延長として発生する。影山は、新国学の出発点を明治の第二維新運動だとしてゐる。

 江戸幕府を倒して維新を成し遂げ、新たなる国家体制を構築することには成功した。ところが、政府は大雑把に分類して、日本派と西洋派に二つの派に分かれてしまふ。

 明治維新を成し遂げた日本は、西洋との不平等条約を解消するために、西洋的な近代国家にならなければならない。そのために、政府の指導者たちは文明開化が必要だと考へ、急速な西洋化をめざす。この路線が西洋派であり、大久保派である。

 これに対して、明治維新は漢(から)心(ごころ)を排撃して大和心を打ち立てるといふ国学の精神に基づいて行はれたのだから、政府が西洋化の路線を採るならもう一度維新が必要だといふことで、第二維新をめざした動きもあつた。この路線が日本派であり、西郷派である。

 そして、第二維新をめざす西郷派は、明治六年に征韓論で敗れて下野することになつた。この年に江藤新平らの佐賀の変、そして明治九年に前原一誠らの秋月の変、太田黒伴雄らの神風連の変、明治十年に西郷南洲らの西南の役と内戦が続いた。なほ、一般的にこれらの出来事は佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱など「乱」と呼ばれてゐるのだが、影山正治は「乱」ではなくて「変」と呼んでゐる。

 三島由紀夫はこの一連の出来事で、特に神風連に興味を持つたやうで、豊饒の海第二巻『奔馬』では、神風連について詳しく書いてゐる。

 西南の役での大西郷敗北によつて第二維新をめざす西郷派は軍事闘争で敗北し、大久保派、西洋派が政府を担ふことになつた。

 しかし、西郷南洲の敗北によつて第二維新運動が終はつたわけではない。大西郷の精神を受け継いだ頭山満の玄洋社などによつて、自由民権運動といふ形で継続されることになつたのだ。

 影山正治は、西郷南洲の思想のなかに新国学の芽生えがあるとしてゐる。一般的に西郷南洲は陽明学の系統だとされてゐるのだが、影山は西郷を平田篤胤の歿後の門人であり、国学派だと捉へてゐる。西郷が篤胤の門人になつたかどうかはよくわからない。しかし、西郷が篤胤宅である気吹舎(いぶきや)に薩摩藩士を送り出し、多くの薩摩藩士が門人となつてゐるといふことは事実である。また、西郷自身も何度か気吹舎を訪問してゐるといふ記録は残つてゐるやうである。

 西郷南洲の有名な言葉として「敬天愛人」がある。
これは儒教思想の言葉である。しかし影山は、この「敬天」とは儒教における敬天思想ではなく、国学的な「敬神尊皇」の意味がその根幹をなしてゐると見るべきであるとし、さらに「愛人」についても、儒教的な「愛民」思想ではなくて、大君が赤子、大御宝、御民としての同胞を敬愛するといふ意味が根底をなしてゐると見るべきであるとしてゐる。

 そして、『南洲遺訓』のなかの次の文章を特に重要視する。

  廣く各國の制度を採り、開明に進まんとならば、先づ我が國の本體を据ゑ、風教を張り、然して後、除(しづ)かに彼の長所を斟酌するものぞ。しからずして、みだりに彼に倣ひなば、國體は衰頽(すいたい)し、風教は萎靡(いび)して匡救(きやうきゆう)すべからず、終(つひ)に彼の制を受くるに至らんとす。(『南洲遺訓』)

  簡単に解釈すると、西洋の制度を取り入れるのであれば、まづはわが国の根本をしつかりと固めてから、西洋の長所を取り入れるべきである、みだりに西洋に倣つたならば、国体は衰頽して日本ではなくなつてしまふと述べてゐるのだ。影山は、この言葉こそが上代国学から現代の国学までを一貫する国学の根本信條であると捉へてゐる。

 西郷南洲はこのやうな考へだつたので、国体を無視してみだりに西洋に倣はうとする大久保派と対立することとなつたのである。
西郷を中心として決起した西南の役は、決して単なる不平武士の反乱などではなく、その思想的根底には国体護持があつたと私は考へてゐる。西南の役だけでなく、佐賀の変、秋月の変、神風連の変も、やはりその思想の根底にあるのは国体護持である。

 さらに、影山は次の文章にも新国学の芽生えを感じてゐる。

  正道を踏み、國を以つて斃(たふ)るるの??なくば外國交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は輕侮を招き、好親却(かへ)つて破れ、終(つひ)に彼の制を受くるに至らん。(『南洲遺訓』)

 たとへ、倒れても正しい道を行くといふ精神で外交をしなければならない、外国の力に畏縮して、円滑な関係性を保つために、外国の意に従順してしまへば、軽侮されることになり、外国の意のままになつてしまふと述べてゐるのだ。現在の政府、特に外務省に聞かせたい言葉である。

 近世国学に比べて新国学は「剣の精神」が協調されることになり、影山はこの西郷の言葉にその芽生えを見てゐるやうである。

 もう一点、『南洲遺訓』を見ておく。

 政(まつりごと)の大體は文を興し、武を振ひ、農を勵ますの三つに在り。その他百般の事務は、皆此の三つのものを助くるの具なり。この三つのものの中において、時に從ひ勢ひに因り、施行先後の順序はあれど、この三つのものを後にして他を先にするは更になし。(『南洲遺訓』)

政治は文武農が最重要だとしてゐる。

 これらの西郷南洲の思想を芽生えとして、第二維新運動のなかから新国学が生まれてきたのである。
                          (後編に続く)

             (公開講座の速記録です。文責は編集部にあります)
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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
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